Episord 20 母ジュリア

 育ての母であるミミは、ジョンに実母のジュリアについて、殆ど話さなかった。だが、ジュリアの方からは連絡が絶えることはなかった。
ジュリアは二度目の夫との間に、2人の娘をもうけていたが、男の子ならジョンがいるという感覚だったのだろう。母親としては当然といえば当然かも知れないが、ジュリアはジョンの成長ぶりが大いに気になっていたわけである。

そして、もう1つの興味深い事実がある。ジュリアは、スタンリー家でも、とりわけ変わり者だったのだ。
ミミが常識的な人間であるのに比べると、それは歴然としている。

ジョンとピート・ショットンは、相変わらず悪さをしていた。学校からも、それぞれの保護者からも、散々注意されている。それにも拘わらず2人が、それらの忠告を笑い飛ばし、行いを改めなかったのは、その頃から彼らの元に現れた人物の影響が大きかったのである。

小学校の時のジョンの仲間で、唯一勉強好きだったアイバン・ボーンによれば、それはジョンの実母であるジュリアの所為だと言う。
ジョンとピートは、ある頃から現れたジュリアが、自分達の感覚と全く変わらない人間であることに狂喜する。
ピートは語っている。

「僕等がこんな説教をされたというと、心配ないわよと、いつも言ってくれた。僕等が知りたいと思うことは何でも話してくれた。どんなことでも笑い飛ばしてしまうところは、僕等とまったく同じだった。凄い人だった。最高だった」

ジュリアは、女性用下着を頭にかぶってすまして歩いたり、レンズの入っていない眼鏡をかけて、相手と話しながらレンズのあるはずの部分から目をこすり、相手が驚くのを喜ぶというような女性だった。
ジョンの口からは、そのような話は出ていないようだが、おそらくそうしたこともすべて含め、彼の中で偶像化されていたのではなかろうか。とにかくジュリアと会っていると楽しい。

ジュリアも、四六時中、顔を突き合わせていれば、また違った態度になったのかも知れないが、なにしろジョンは自分によく似ていたのだ。自分の血を引いているジョンが自分のような人間になることを喜んだのは間違いないところだろう。
ジョンは、伯母であるミミをむしろ母親のように感じていたようだ。実母であるジュリアは、ちょっと違った感覚だった。

「ジュリアは一種の叔母、あるいは姉のような感じだった。ミミとは口ゲンカすることが多くなった。だから週末にはジュリアの家に泊まりに行ったりした。新しい男にも会ったけど、まあまあの奴だった。“顔面神経痛”というあだ名をつけてやったけどね」(ジョン)
ジョンとピートの成績はどんどん下がり、最低ランクのクラスに入れられる。ジョンは最低クラスの最下位というありさまだった。
中学の5年生のとき、この中学に赴任した校長は、この学校一の問題児をなんとかしようとしたようだ。
だが、結局、どうすることもできない。

「彼は駄洒落ばかり上手な、どうしようもない不良少年でした。私にはまったく理解できませんでした。残念ながら、彼を鞭で打ったこともあるのです」
ジョンに対する評価はすでに、この校長が赴任する以前に下されていた。
成績表にこう記した教師もいたのである。

「間違いなく落伍者である」

それでもこの校長は、進級試験に落第したジョンに救いの手を伸ばす。
「美術学校へ行かせるしかないと思いました。絵が上手なことは承知していましたからね。チャンスを与えるべきだと考えたのです」
このころ、ミミは中学校へ赴き、この校長と話をしている。なんとかして、1人前の人間なってくれればいいという願いからだった。

「心の中ではジョンの父親のだらしなさを思い出したりしました。そんなことはジョンには言いませんでしたけどね」
ジュリアの影響も大きかったはずなのだが、同じ姉妹としては、やはりこう言いたくなるのだろう。

ジョンと音楽との出会いはどうだったのだろう...
ジョージ伯父さんに買ってもらったハーモニカがジョンのお気に入りだった。自己流に吹き方を覚えたと言う。
毎年、ジョンはエディンバラの親戚の家に行っていたが、その時、バスに乗っている間中ハーモニカを吹き続けていた。10歳くらいの頃のことである。
「バスの車掌さんは、あの子のハーモニカに感心したんです。エディンバラに着くと、ジョンに言いました。もっといいハーモニカをやるから、明日の朝、停留所に来いよってね。ジョンはその晩眠れず、翌朝飛んで行きました。音楽に関してジョンを褒めてくれたのは、その車掌さんが初めてでしょうね」

中学生になるとラジオで聞いた流行歌を覚えて歌っていたようだが、ミミはこれを嫌がったという。ミミにとっては音楽とはそういうイメージではなかったようだ。
「幼いときに音楽を習わせようかと思いました。ピアノかバイオリンをね。でも、あの子は嫌がりました。レッスンというと毛嫌いしてました。なんでもすぐにやりたがったのです」
正式にピアノの教育を受けたジョン・レノンというのも、想像してみると、なかなか興味深いものがあるが、まあ、ここでは深く考えまい。

ビートルズが登場する以前の50年代。最も影響力のあった人物、エルビス・プレスリーが登場する。
1956年に出したシングル「ハートブレイク・ホテル」は、世界中の若者を魅了した。くねる腰、幾分めくれ上がった唇、わざとしたように不明瞭な発音で低く唸るかと思えば、しゃくりあげるように歌う。そして芝居がかったアクション。それらは、まさに若者達を興奮させた。
ジョンは、それまでにあったポピュラーソングを聴くには聴いたが、プレスリーほどの興奮をもたらすものではなかった。

「エルビス以前に僕が影響されたものは全くない」(ジョン)

リバプールでもプレスリーに影響された若者達が音楽を始めた。ジョンも何かを始めたかったが、楽器が無かった。ギターを借りて試してみたが、すぐには弾けないと解るとあきらめた。
母親のジュリアは、バンジョーが弾けた(フレッド・レノンに教わっている)ジョンがねだると、ジュリアは中古のギターを買って与えた。いくつかのコードを教えたが、それはバンジョーのコードだった。弦のチューニングもバンジョー風にしたのである。

しかし、正式なレッスンを受けなくても、コードを覚えれば演奏出来る。これはジョンには大変なことだったのではなかろうか。

やがてジョンを中心にクオリーメンというバンドが結成された。メンバーは見るからにテディボーイ(非行少年)といった風であり、ますますジョンは、母親達から嫌われた。
ジョンが最年長であり、ケンカが絶えないこのグループはメンバーの入れ換えも激しかった。
ある教会でのライブの日、仲間のアイバンが自分の学校から1人の友人を連れて来る。彼自身はジョンのバンドに関心が無かったようだが、ジョンが喜ぶと考えたのだろう。

「奴が大物なのはわかっていたさ。僕がジョンに紹介した奴は、みんな大物だった」

1957年7月6日ポール・マッカートニーとジョン・レノンの出会いの日である。

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