最後にビートルズに加入した"遅れて来たビートルズ"とも称されるリンゴ・スター。その交代劇の真実を知る者は、
 今やポールだけ。ここに来て彼の存在を自分なりに考えてみたいと常々思っていました。       Episord 4
  一方、この頃のリンゴはと言うと、1961年秋にハリケーンズのハンブルク公演を終えて一旦リバプールに戻っていた。
その時のリンゴは、なんとアメリカのテキサスへ移住することを計画していたらしい。ただ、ヒューストン商工会議所から送られて来た資料を見て、移住申請のために揃える書類の多さに辟易して、あっさりとその計画を断念したと言う(笑)
その翌年の1962年2月のこと、ビートルズのピート・ベストが体調を崩したので、ステージでドラムを叩いてくれとジョンから電話があった。リンゴはこの時たまたま仕事が入ってなかったのでOKしたのだった。その後、トニー・シェリダンのバックバンドの仕事をするために再びハンブルクへ渡ることになるが、リンゴは横暴な振る舞いをするシェリダンと上手くやれず、結局1ヶ月後には再びハリケーンズに戻ることとなる。
ビートルズの3人は、この2月の演奏ですっかりリンゴのドラムが気に入ったのか、ジョンとポールは、ハリケーンズの3度めとなるウェールズのバリトン・レジャー・センターへの長期公演に参加していたリンゴの元を訪ね、何とかリンゴのバンドへの加入を依頼している。
しかし、リンゴは当初、その出演契約が満了になるまでは参加出来ないと断ったと言う。だが、結果的にはジョンのアプローチの方が勝った。8月14日にウェールズのリンゴの元に電話を掛けたジョンが口説き落としたのだ。
結局、ハリケーンズの残り15日分の契約を残してリンゴはリバプールに戻り、8月18日のステージからビートルズの正式メンバーとなったのである。
リンゴによるとジョンから電話が掛かり、ビートルズに入らないかと誘われたと言う。「ただし、ビートルズに入るにはヒゲを剃って髪を伸ばさなきゃならないぜ」とも付け加えたそうだ(笑) 同じ頃、キング・サイズ・テイラーとザ・ドミノスからも誘いがあったそうだが、そっちは週20ポンド、ビートルズは週25ポンドだったのでビートルズに決めたとリンゴは言ったそうだ。
それは事後のジョークだろうが、いかにも当時のプロドラマーとしての立場をよく表した発言だ。

ビートルズ側には7月の末にジョージ・マーティンからエプスタインの元に電話があった。EMI傘下のパーロフォン・レーベルと契約して欲しい、そしてレコーディングする曲も検討中であると言った。こうして長年の努力が実りビートルズは晴れてレコード・デビューに漕ぎ着けたのである。ブライアンもジョンもポールもジョージも皆飛び上がって喜んだ。だが、この吉報はピート・ベストだけには伝えられることはなかった。一緒にオーディションを受けたのに、である。何故か?この時点でピート・ベストの解雇が決まっていたからである。水面下ではリンゴ・スター獲得劇が既に始まっていたのだ。
1962年8月15日、ブライアン・エプスタインはピート・ベストに解雇を告げた。ジョンがリンゴを口説き落とした翌日である。ピートにとっては正に晴天の霹靂であっただろう。解雇の理由として「ジョージ・マーティンがピートの演奏に不満だと言っている。」「他のメンバーはピートは演奏に溶け込んでいないと言っている」とエプスタインは告げたが、明らかにバツが悪そうで歯切れは悪かった。ピートはこれを受け入れ事務所を去って行った。
ピート・ベストの突然の解雇のニュースは直ぐにリバプール中に知れ渡り大騒動に発展した。それも当然、ピートのファンからすれば、正にこれからと言う時に自分達が応援して来たアイドルが失脚してしまったからだ。怒りの矛先は殆どエプスタインに向けられた。エプスタインはファンの襲撃に備えてボディ・ガードを付けてキャバーン・クラブに行かなければならなくなったと言う。
エプスタイン本人はピートを解雇したくなかったのが本音である。ピートは美男子でファンが大勢居ることを知っていたし、マネージャー契約を結んでから初めて気心が通じたメンバーもピートだったからだ。だがエプスタインも他の3人がリンゴを入れようとしていたことに薄々気づいていたと言う。つまり遅かれ早かれこの陰惨な粛清は起こっていたことなのである。こうして世紀の交代劇が終わり、ビートルズは間違いのないパズルの最後のピースを嵌めてようやく落ち着いた。

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