" If "

"If"「もしも...だったら」とか「〜してれば」とか人はよく言います。俗にいう「たら・れば」ですね。
結果から遡った空想のドラマ。それは決して推測の域を出ませんが、このビートルズ物語。
もし〜だったらと考えた時、いったい現在はどうなっていたでしょうね。(あくまで個人的な推測です)

2007,06,29
 Chapter-1,もし、ジョンがポールと出会わなかったら...
 ウールトンのセント・ピーターズ教会でのフェスティバル祭でお互い共通の友人だったアイバン・ヴォーンに紹介されたとあります。アイバン・ヴォーンにすれば、この引き合わせは世紀の功労となるのでしょうが、私が思うに、この二人が会わなかったことは恐らくあり得なかったと思います。同じリバプール市民という以前にバス停2つくらいしか離れていない近所。ましてギターを抱えてロックン・ロールをやろうとしていた同世代の若者ですからね。それにアイバン・ヴォーンが共通の友人なのですから、いずれにしても会わない筈がありません(笑)
でも、そう言ってしまうと、最初からおもしろくも何ともないですから、本当に出会わなかったとしましょうか。

・どちらも他の誰かとバンドを組み、ポールはジョージと組んで一時メジャーデビュー
 を果たし、ジョンは最後までライブハウスを転々とする生活。

・ポールのバンドはソフトな感じが受けて2曲ばかし売れたが、そのうち解散。歳を重
 ねども音楽から離れられず、細々と2線級のミュージシャンを続ける。

・ジョンは相変わらず、一流バンドをやっかみながらのライブ活動。自分の隠された本
 当の才能に気づかない。コネを使ってちょっとしたラジオ番組になんとか出させても
 らったりもしたが、結局は泣かず飛ばず。地元リバプールじゃそこそこ有名で、小さ
 なライブハウスで年老いたロックンローラーとして長年頑張るが、ある夜酔った上、
 客との口論の末殺害される。(って、結局殺害されるのか?)

・いや、成功にかけては馬車馬のように突き進み、崖っぷちに来たら躊躇することな
 く飛び降りるような男。きっと違う形でデビューしたに違いない。あの歌声が誰かの
 耳に留まったなら、なにがしかの道は開けたのではないかと思う。

・その後ポールと知り合う事となりバンドを結成するが、やはりタイミングを逸している
 のか、何もかもが上手く行かず、どん詰まりの状態。そんな中なんとかデビュー直
 前までにこぎ着けたかと思いきや、悪徳マネージャーの詐欺で金を持ち逃げされて
 しまって一巻の終わり...ホントにこうなら虚し過ぎる。

・ビートルズはジョンをリーダーとしたコミックバンドとして別のグループ名で名を馳せ
 ていたかもしれませんね(笑)そしてポールは甘い歌声でムード歌謡してたかもし
 れませんね(ムーディ・ポールと か・笑) どっちにしても、人気者にはなっていた
 でしょうけど、これほどまでかどうかは・・・  by chacolateさん


・4人が4人ともソロで十分世界に通用するミュージシャンになっていたのは確かだと
 思います。しかし、ビートルズとして結合していなければビートルズ旋風を越える別
 の旋風は巻き起こっていなかったと思います。それゆえ10年ほどの活動でバースト
 してしまったのも理に叶っています。奇跡の4人が出会った事が世界の歴史上、音
 楽史上における大事件。出会いに乾杯!   by コマンチャさん




2007,07,02
 Chapter-2,もし、スチュアート・サトクリフが凄腕であり、死ななかったら
 絵画の才能に恵まれながら、若くしてこの世を去ったスチュアート・サトクリフ。きっとバンドなんかより絵画に集中したかった筈だと思います。ギターは上手いが歌は下手、歌は上手いが楽器はダメ、みたいに絵の才能はあるが音楽の才能までは持ち合わせなかった彼。でも、ジョンは一番の親友として彼を何とか仲間に引き入れたかったのでしょうね。しかし、やって行くうちにお互いが納得せざるを得なくなったのでしょう、スチュの脱退は自然な成り行きだったように思います。
そこで、彼がもし、音楽の才能にも長けていて、難なくベースを弾きこなしていたとしたらどうでしょう?それはかなり変わったビートルズになっていたような気がしますね。
きっとポールはギターのままだったでしょうし、5人組のビートルズとしてデビューしていたのでしょう。という事はインタビューのジョークやウィットなんかも少し変わっていたでしょうね、組み合わせ数が極端に増え、さらにネタが増えるわけですから。
でも、ひょっとするとポールがドラムをやっていて、現在のリンゴの姿は無かったかも知れませんね。じっと考えてみると、彼の出来によってはかなり行く末が左右されたようにも思います。

・ジョージの出る幕がなくなると言うか追いやられる。彼に対して批判的だったポール
 はもう少し大人しくなる(笑)

・各アルバム・ジャケットのデザインが今とは違ったものになったでしょう。「リボルバ
 ー」は絶対に違うでしょうし、クラウス・フォアマンの出番は無かったかも知れません。
 その後のサージェント・ペパーズなんかもどうなったか解りませんね。恐らくもっと違
 ったものになっていたのは確かでしょう。

・しかし、結局はポールと意見が合わず衝突を繰り返すうち、リーダーでスチュ擁護派
 のジョンがポールと衝突するようになり、かなり早いうちにビートルズは分裂、解散に
 至ったかも知れません。なんとなくそんな気がします。もとより彼は音楽をやることに
 大した興味は無かったワケで、ただビートルズを脱退しても死ななければ、色んな場
 面でビートルズの4人に対して、アートな面で助言やアイディアを示すことが出来た
 のではと思います。

・ビートルズ=「ジョンとポール」ではなくて「ジョンとスチュ」になっていたのでは?
 ジャケなんかもスチュの手描きで、LP盤は今では美術品の域だったりとか。
 で、ポールはポールでジョンと喧嘩別れ、というよりは早々に自分がリーダーのバン
 ドを作って、ビートルズともうまくお付き合いしてたのでは。20世紀の音楽史上は、
 イギリスは2つの有名バンドを同時期に輩出した、という歴史になっていたかも?
 でも2つのバンドとも、こんな大旋風になっていたかなぁ?  
by chacolateさん




2007,07,04
 Chapter-3.もし、ビートルズがハンブルグへ行かなかったら
 リバプールのナイトクラブの経営者アラン・ウイリアムズの斡旋で、1962年8月16日からハンブルグへ行くことになったビートルズは、"インドラ・クラブ""カイザー・ケラー"で3ヶ月の間、休み無しで1日8時間の演奏という超ハードなステージを強要され、また超過激な生活環境を与えられました。この異常な環境と体験が彼らを進化させたというのは有名なお話ですが、もし、彼らがハンブルグへ行くことがなかったらどうだったでしょう?

・リバプールでそこそこの人気バンドにはなれたと思うが、他のバンドとあまり腕前の
 差は無く、同じレベルで埋もれた存在だったかも。それに、あのしたたかさは出なか
 ったかも知れない。あくまで港町のアンチャンバンドに終始したのではないか? 
 ハンブルグはリバプールでは知り得なかった人間の掃き溜めのような世界。酒、薬、
 性と、良くも悪くもまさに刺激的だったのだろうと思う。

・しかしながら、やはりなんと言ってもビートルズはビートルズ。素材は超一級です
 し、リーダーはなんと言ってもジョンです(笑) 時期は少し遅れたかも知れません
 が、やはりデビューはしていたかと思います。ただ、トニー・シェリダンとのレコーデ
 ィングも無かったでしょうから、ブライアン・エプスタインの店にそのレコードが欲しい
 という客は来なかったワケで、それがきっかけでブライアンが彼らのマネージャーに
 なることは無かったでしょう。
 そう考えると、なんとかデビューは果たせたものの、あそこまでの大成功には至ら
 なかったのではないでしょうか?

・ブライアン・エプスタインがビートルズを知ったのは、実は彼の店の広告を掲載してい
 た「マージー・ビート」だという説もあります。よって、有名なレコードのエピソードが無
 かったとしても、いずれ彼らは出会っていたのかも知れません。




2007,07,06
 Chapter-4.もし、ピート・ベストが解雇されなかったら
 デビュー直前のピート・ベストの解任について様々な諸説がありますが、その真実を知る者は、今やポールとジョージ・マーチンの二人だけになってしまいました。

『4人の中で彼が一番ハンサムだったので、みんなから嫉妬されたため』
ポールとピートは気が合っていなかったと認めた上で「いつの間にか、ポールがピートに嫉妬して追い出したなんてくだらない話が出来上がっていた」by ジョン
『彼は常識人だったので、他のメンバーと合わなかったため』
「全く罪のない奴だったけれど鋭さがなかった。他のみんなは頭の回転が早かったけれどピートは俺たちにどうしてもついて来れなかった。そもそもハンブルクへ行く時にドラマーがいなくて、とりあえず入れただけだ。ルックスが良くて女の子にもてたから、まともにドラムが出来なくても構わなかった。ちゃんとしたドラマーが見つかったら降りてもらうつもりだったのさ」by ジョン
『リンゴを敬愛していたジョージの画策』
「ピートはギグが終わると一人で出かけて僕らとつるもうとしなかった。ギグもよく休むし、そんな時リンゴに代役を頼んでいた。リンゴがドラムを叩くたびに『これだ!』と思ってたから、僕が『リンゴを正式なメンバーにしよう』とジョンとポールに働きかけた」 by ジョージ
『ピートのお母さんがグループに世話を焼いており、今後も出しゃばることを嫌って、解雇したという説』など様々ですが、基本的にはジョージ・マーチンの言っているドラムの腕が問題だってということが本筋となっています。ところで、このピート・ベストが解雇されずにそのままだったならば、どうなっていたでしょう?

・いずれ早いうちに解雇されていたと思う。バンドは絶対的にドラムが命。アンソロジー
 などでの彼のドラムとリンゴのドラムを聴き比べればすぐに解ると思うが、プロレベル
 では認められないレベルのドラミングだと思う。
 個人的な意見では、上の「ドラマーがいなくて、とりあえず入れただけ」というジョン
 の言葉がまったく自然かと思う。最たる創生期の3人のメンバーからすれば、彼はあ
 くまでエキストラ(臨時)のドラマーだったのだ。

・ピートが解雇されてからのビートルズの大成功があり、神話がある。ということは彼
 がいればダメだったかも?というIFはあっても、彼がいても成功したというIFはもは
 や存在し得ない。

・ということは、"If"という議題にも乗れないということか...悪意で言うつもりはさらさ
 らないが、ピートが居るビートルズは、まったく考えられないという事になる。




2007,07,14
 Chapter-5.もし、デッカレコードのオーデションに受かっていたなら
 1962年1月1日、デッカレコードで初めての本格的なオーディションを受るため、意気揚々と臨んだビートルズでしたが、結果は見事に不採用(笑) ガックリと肩を落とす4人を後目にブライアン・エプスタインは売り込みの努力を続け、その後、名プロデューサー、ジョージ・マーチンのオーディションにこぎ着け、ビートルズは合格します。
そしてパーラフォンレコードとの契約となり、めでたくメジャーデビューを果たすわけですが、後に「世紀のミスジャッジ」と唱われたデッカレコードのオーディション。もし、彼らがそれに受かっていたなら、どうなっていたでしょう?

・別のプロデューサーとの出会いもあるので、一概にダメだとは言えないが、やはり、
 かなり変わった形になったことは確か。クラシック音楽や楽器などに精通していた
 ジョージ・マーチンゆえに彼らビートルズの音楽性がさらに飛躍したことも事実で、
 ラバー・ソウル以降の中期、後期的なビートルズは存在しなく、あくまで単なるロック
 ン・ロールバンドに終始したかも知れない。

・ピート・ベストの解任劇は無かった可能性が高い。しかし、続けるうちに彼のドラムに
 不満を抱き、結局のところピートとリンゴのメンバー・チェンジは起こるように思う。

・レコード会社、プロデューサーが変わったとしてもレノン=マッカートニーは変わらない
 ので、初期に作った曲はさほど変わらなかったかも知れない。しかし、中期前から後
 期の曲そのものやアレンジなどはかなり違ったものになったのではと思う。




2007,07,19
 Chapter-6.もし、ブライアン・エプスタインが死ななかったら
 ブライアン・エプスタインがビートルズのマネージャーとして正式に契約したのが、1961年12月21日。キャバーンで初めてビートルズを知ってから2ヶ月も経たない頃です。そして就任10日後の1962年1月1日にはデッカ・レコードでオーデションを受けさせます。さすがのビートルズの4人にも考える暇を与えないというか、有無を言わせないまさに電光石火の勢いでした。
結果は無惨にも不合格に終わりましたが、それ以後も彼は精力的に動き、1962年6月6日ついにパーラフォン・レコードでのオーデションにこぎ着け、見事合格。ビートルズがメジャーデビューを果たすのです。マネージャー業も何も知らない、単なるレコード店主に過ぎない彼が、ビートルズをあそこまで押し上げたのは奇跡としか言いようがありません。最初からストーリーがあって会うべくして会ったとしか思えませんね。
ビートルズの4人からすれば何でも知っている敏腕聡明で大人なアニキ、かつ愛すべき親友だったのでしょう。その彼が1967年8月27日に精神安定剤などの薬物の過剰摂取が原因で急死してしまいます。それ以降のビートルズは船頭を失った船、または頭を失った鶏のように迷走を始めるワケです。もし、あの時彼が急死しなかったら、以後のビートルズはどうなっていたのでしょう?

・ライブ活動はすでに止めていたので、彼の仕事はもっぱら会社経営や事務的な仕
 事になっていたのでしょうが、全てにプロフェッショナルな考えを持つ彼ならば映画
 「MAGICAL MYSTERY TOUR」をあのような形で撮影したり、公開したりする事はな
 かったかと思われます。

・解散はいずれにせよあったと思うが、間違いなく時期は延びただろう。ホワイト・ア
 ルバム以降からのメンバーの不和の元はと言えば、音楽的な事以上に会社のマ
 ネージメントのあり方についての事がその発端だったからである。

・彼が生きていたならアップル社を立ち上げたとしても、キッチリと管理され経営され
 ていたと思えるし、彼らビートルズも音楽や映画のことだけを考えていれば良かっ
 たので、見たくもないいざこざに巻き込まれたり、お金の事や権利の事などでお互
 いが嫌な思いをすることもなかったので、あのような時期にあのような形で解散に
 追い込まれる事もなかったと思う。

・しかし、ビートルズをひとつの物語として考えるとすれば、ビートルズの解散を一番
 良い時期にする為に、彼の死があったのかも知れない。




2007,07,24
 Chapter-7.もし、ジョンがオノ・ヨーコと知り合わなければ
 「ビートルズを解散に追い込んだ女」と呼ばれ、他のメンバーからもファンからもあまり良い印象で受け入れられない彼女。1966年11月9日ロンドンのインディカ・ギャラリーでの彼女の個展の開催前日に知り合ったというのは有名なお話ですね。セッションやレコーディングにまで同席し、何かと口出しするワケのわからない年増の芸術家...そんな得体の知れない女にリーダーであるジョンが骨抜きのようにされている。他のメンバー達は絶対に良く思わなかったでしょうね。普通に考えれば無神経この上ない行動ですが、彼女にはこれが無神経でもビートルズのメンバーに対する侮辱でもなんでもなかったのでしょう...
ビートルズの物語でいうと、完全にヒールな存在、かなりの悪役を承った彼女ですが、もし、ジョンが彼女と知り合わなければどうだったでしょう。

・「ヨーコと出会って僕の人生は変わったんだ」ジョンの口からそう言わしめたヨーコの
 出現。ジョンからすれば恋人や妻というよりも、同志、いや、母親と表現した方がピッ
 タリと来る存在だったのだと思います。

・基本的に良くは言われない彼女。確かに目に余る行動や言動、そして様々なトラブ
 ルがあり、全世界を敵に回しましたが、しかし、ジョン本人にとっては救世主だった
 のだと思います。あの精神が不安定な状態の頃、全世界からのとてつもないプレッ
 シャーから逃避するかのごとくドラッグを使い続けるジョン。
 もし、あの状態が一人きりで続いていたなら、薬物中毒で死亡、または廃人になって
 いたか、最終的には追い込まれて自殺したかも知れません。そこは本人でしか解り
 ませんが、かなり切羽詰まった精神状態だったように思います。それがヨーコという
 母親のような安らぎを得る事で、ジョンはこの世に踏み留まれたのではと思います。
 だから、彼女と知り合ってからのジョンが一時、若い少年のような別人みたいになっ
 てしまったのも納得の行く話だと思えるのです。
 確かに最悪の状態(ジョンがダメになる)を見ていないので、何とも言い難いですが、
 そう思えば、ヨーコはビートルズ存続に貢献したことにもなります。かなり無理があり
 ますが...(汗)

・東洋の文学などに興味を持つことがなかったでしょうから、「Because」「Imagine」など
 の曲はこの世に出なかったでしょうね。
 ジョンがヨーコと出会わなければ、ジョンのベクトルが急に別な方に向く事は無かっ
 たと思われるので、解散はかなり遅れたのではと思います。しかし、ヨーコの存在は
 ブライアンの死と同じく、ビートルズを一番いい時に解散させるべく送り込まれたキャ
 ラクターだったのではないのでしょうか...
 これも全く真実性のカケラもない意見ですが(笑)




2007,07,28
 Epilogue.もし、ジョンが殺されずに生きていれば
1980年12月8日ニューヨークの自宅アパート"ダコタハウス"の前で撃ち殺されたジョン。長年の子育て主夫から復帰して間もない出来事。ニュー・アルバムのリリース後には、ワールド・ツアーも予定されており、ツアーは日本から始まるとも言われていたので、本当に残念でなりませんでした...いや、"残念でした"などという軽はずみな言葉では片づけられない、忌まわしい出来事でした。
色んな事を乗り越えてここにたどり着いたジョン。これからが本当の意味で成熟した大人のジョンを見られるという時に、我々は大事な彼を亡くしてしまったんです。この時の衝撃は今でも色褪せずに脳裏に刻まれています。
「死んだ子の歳を数える...」まことにそのような感じで、このような事を書くのもどうかとは思うのですが、どうしようもない我々ファンの無念な気持ちとして、もし、彼が何事もなくそのまま暮らしていればどうであったかと、想いを巡らせたいと思いました。
もし、この世がパラレル・ワールドであれば、その違う道筋での現在を覗いてみたいという気持ちで...

解散後、ポールは、しばしばジョンのダコタハウスを訪ね、話などしては一時の縺れた関係を修復しつつあったと言われています。話すだけじゃなくて、実はちょっとしたセッションもしていたという事です。
1974年3月にハリー・ニルソンのレコーディングを手伝っていたジョンの所へポールが訪ねてきて、みんなでジャムったという話。ずっと公にされることも無く、その音源の有無も確かではなかったのですが、最近You Tubeで公開されているのを見つけました。(ただし、かなり解りにくいんですけど・汗) 真一郎さんのブログで知りました。
http://www.youtube.com/watch?v=npLDdPXbEqA&mode=related&search=

色んな事があって解散し、犬猿の仲みたいに書かれたり言われたりした二人ですが、彼らにとっては兄弟喧嘩みたいなモノだったのだと思います。辛辣な事を言いながらも、ジョンはやはりポールの兄貴だったし、ポールもジョンを慕ってたんだと思います。
逆に世間のそういったゴシップをふたりで愉しんでいたかも知れません。ポール死亡説や"I Am The Walrus"の歌詞などのように(笑)
当時、ジョンはポールの悪口を言った者に対して激怒したと言います。「ポールの悪口を言えるのは俺だけだ。俺はヨーコとポール以外は誰も認めない」とまで言ったといいますから、ジョンにとっては心から認めた大事な兄弟、いやそれ以上の大きな存在だったのでしょう。
このジャムセッションがあった少し後からジョンはショーン育児の為の主夫生活に入り、音楽活動から離れてしまうのですが、それから5年後、育児を終えて、やっとニュー・アルバム"ダブル・ファンタジー"をリリースします。もし、あの12月8日の悲劇がなかったならば、ワールド・ツアーが成功して落ち着いた後、ポールときっとこんな会話が交わされたんじゃないかと思います。


ジョンのダコタハウスでグラスを重ねながら...(ヨーコ不在・爆)

John「ア〜ハッハッハァ〜 あの時のリンゴの驚いた顔ったら、ありゃしなかったなー」
Paul 「ハハハッ ほんとだ、ジョージも腹抱えて笑ってたよ。懐かしいなぁ...」
J&P 「..........」
John「どうだポール、そろそろやるか?」
Paul 「そうだね、いいね!君とだったらいつでもやるさ!」
John「おっと、そう来なくちゃな!こうなりゃジョージとリンゴに連絡だ!ところで何処か
    らおっぱじめる?」
Paul 「そりゃ、やっぱ、リバプールからだろ。なんたって僕たちはビートルズなんだぜ
    笑」
John「ウォ〜〜〜〜武者震いしてきやがったぜ〜」

全ては虚しい夢となってしまいましたが...せめて夢は夢として...  "If" 完