Episord 3 俳優を目指して

 ブライアンは、信じられないほど物事に熱中するが、また同時に冷めやすい性格だった。なんにせよ、成功するか、満足した瞬間、急に情熱を失ってしまうのである。この性格は、もしかしたら、彼の人生において最後までつきまとっていたものなのかも知れない。
父親に任された家具店での営業成績は抜群の状況で、間違いなく成功していたが、ブライアンは退屈し始めていた。内から沸き起こっていた芸術的な欲求が満たされないということが、彼をまた苛立たせていたようなのである。
やがて彼は演劇通いを始める。

リバプール・プレイハウスの一番良い席に陣取り、俳優達の演技を堪能するうち、一人の女優ヘレン・リンゼイと知り合うことになる。彼女の方は、ブライアンを一目見て女優目当ての単なる追っかけではないと判断し、その後も会うことになった。ブライアンは彼女と知り合ったことで、さらに劇場に足を運び、殆ど入りびたりといった状態になった。
彼女の楽屋にも自由に入れたブライアンは、ハムレットの主役を演じたブライアン・ベドフォードの演技を絶賛し、彼女に紹介してもらう。やがて彼らは“仲良し三人組”といった感じで、演劇について語り合う仲になっていく。

するうち、ブライアンは、今の家具のセールスという仕事にウンザリしており、何としても舞台に立ちたいのだと語り、オーディションを受けてみたいので、それを手伝ってくれないかと頼むのであった。何と、ブライアンは本当に役者になろうとするのである。
ベドフォードは、ブライアンは役者には向いていないと彼女に告げる。ヘレンも確かにブライアンが役者に向いているとは思えなかった。彼には俳優に必要な“激しい気性”が見られなかったからである。彼女も、「ハンサムで魅力的とは思うけれど主役を張れるタイプではない」とブライアンに告げる。しかし、ブライアンの決心は変わらなかった。
こうして、ヘレンはブライアンの手助けをすることになる。

実際に演技指導をしてみると、思っていた以上にそれは大変なことだった。どんな演技もぎこちないのだ。緊張して、コチコチになる。悲観材料ばかりが山積されることになった。ヘレンとベドフォードは、ブライアンがゲイであることを知っていたという。なぜ知っていたのかは、定かでない。いずれにせよ、そんなこととは係わりなく交流を持つことが出来る人達だった。彼女は、演技にゲイ独特の身のこなしが出るのではないかと危惧したが、そうしたことは一切なかったという。問題はとにかく緊張からくる不自然な演技だったのである。

1956年9月19日、ブライアン・エプスタインは、ロンドンでのオーディションに合格する。それはつまり、RADA...Royal Academy of Dramatic Art イギリスの王立演劇学校に入学できるということなのである。この結果に周囲の人間は仰天したが、本人は自信満々だったようだ。ブライアンの父、ハリーはなんとこの「愚かな息子」の願いを聞き入れて、学費を払うことにするのである。
母のクイーニーと父のハリーは、息子の旅立ちの日、駅までブライアンを見送っている。両親の心境はどのようなものであったことか。RADAでの“同級生”には、スザンヌ(スズンナ)・ヨークがいたというから、本当に凄い処に居たことが実感される。 

彼のロンドンでの生活には、ガールフレンドが存在した。
2歳年下のこの女性は、やはりRADAの生徒だった。彼の演技をさほど買っていなかった彼女だが、「かもめ」のコンスタンティンを演じたときの彼の“解釈力”に、感動したのだという。それは、演技とは思えない鬼気せまるものがあった。後年、彼女は語っている。
「ブライアンは、自分の中の何かを追い払おうとして行くみたいだったわ。『ちょっと待って、これは演技じゃないわ』

そう思ったわ。彼にとってそれはきっと、治療みたいなものだったのね。見てる方はちょっと怖かったけど」
だが、次第に、ブライアンは酒に溺れる生活となる。
演劇学校の生徒たちは、コーヒーを飲む程度であり、酒を飲むブライアンは異質な存在だった。ブライアンとガールフレンドはかなり親密だったのだが、やがて、酒のことで彼女は離れて行く。
しかし、付き合っている間、彼女はブライアンが“普通の男”だと信じて疑わなかった。ブライアンはどうしたかったのだろうか。内面の混乱を抱えたままで、彼は酒に溺れた。出来ることならば、彼女に自分の秘密を打ち明けたかったのだろうか。演劇学校の雰囲気も次第に彼を苛立たせていった。学校嫌いだったブライアンは、22歳にもなって、「生徒」として振舞わなければならないことに耐えられなかったのである。

1957年秋の新学期が始まっても、演劇学校にブライアンの姿はなかった。ブライアンの移り気は、ようやく納まり、このままリバプールに留まると両親に告げたのである。
1人ロンドンで過ごした生活は、まったく無意味なものだったのだろうか。実家から離れて自分を見つめなければならなかったこの時期に、クラシック一辺倒だった彼は、アメリカ人歌手のリトル・リチャードになじんでいる。
ブライアンと“ステディ”な関係だった女の子、ジョアンナ・ダナムはその後女優として成功したが、ブライアンは、彼女の公演初日には必ず花を届けたそうだ。

ある変革が起ころうとしていた。1950年代後半になると、テレビ、洗濯機等々の電化製品が急速に一般化してきた。ブライアンの父ハリーは1つの決断をする。彼はNEMSという名の店を出し、この新分野に進出することにしたのである。NEMS…つまり、ノース・エンド・ミュージック・ストアーズ。

そしてブライアンは、レコード部門の責任者となるのである。例によって、ブライアンの能力はいかんなく発揮され、またたくまにレコード部門は黒字になる。ハリーはさらに事業を拡張し、3階建ての2号店をオープン。
ブライアンがこの「NEMS2号店」を任されると、1年もしないうちに、その地区で一番の有名店となる。身だしなみの良い客に混じって、いかにも見すぼらしい感じの革ジャンを着た若者たちが、目につくようになった。
彼らは、新譜レコードを試聴するだけで、ほとんど買う気がない様子である。ブライアンには目障りな客であったが、女店員によれば、そうした若者たちはポップスについて非常に詳しく、特にじゃまにはならないという。

ブライアン・エプスタイン、このとき27歳。彼は、ポップスの世界にも目を向けてみようと考え始めるのである。
 

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