Episord 10 スタートライン

 運命の不思議はここでもあった。もしも、その時、違った判断をしていれば...
それは人生に於いてしばしば起こり得る。もちろん、それは後になって振り返ってみれば..ということなのであり、
結果論でしかないのではあるが。

ブライアン・エプスタインは、シド・コールマンによって、運命の出会いともいうべき、ジョージ・マーティンに会う段取りをつけてもらった。コールマンはその場で、電話をし、直接本人からエプスタインに会うという同意を得たのである。
いつものエプスタインならば、おそらく翌日に備え、あれこれ思いを巡らせていた筈であった。だが、どうしたことか、ホテルに戻ったエプスタインは、気力が萎えていた。
連日の売り込み活動にも係わらず、一向に光は見えて来ないからか。

その時、彼のとった行動は、また不思議といえば不思議なのである。市内にいる叔父に「会いに行っていいか」と電話しているのだ。叔父のベレルは、「もちろんいいけれど、子どもたちはいない」と答えている。話のお相手がいなくては...という気持ちだったのだろう。
しかし、それでもエプスタインは、叔父の家に向かった。とにかく彼は、話し相手が欲しかったのだろう。そして、叔父に向かって、あれこれ語っているのだ。
何処へ行っても相手にもされずに、困っている。
ビートルズが素晴らしいことは間違いない。
しかし、それを聴いてもらう以前のところで、足踏みを繰り返している...

おそらく、エプスタインは、明日会う約束をしてくれたジョージ・マーティンという男も、これまでと同様、ただ会うというだけで、そっけない対応をするのではないかという悲観的な考えに捕らわれていたのだろう。
「どうしたらいいんだろう。全てを諦めるべきなのだろうか。明日の朝、1つだけ約束があるけれど、もうリバプールに帰った方がいいのかな?もう、どうしていいのかわからないんだ...」
その時に叔父がどう答えたかで、彼の、そしてビートルズの運命はまるで違ったものになっていたかも知れない。
果たして、これほど断定的であったかどうかは、怪しいところであるが、叔父はエプスタインに、その時こう言ったと伝えられている。

「いや、その約束にだけは予定どおりに行くんだ」

アビーロード...事実上、ビートルズが最後に創ったといわれているアルバムのタイトルにも使われているこの通りに、EMIのスタジオがある。エプスタインが、前夜、気弱になっていたのには理由があった。EMIからは、すでに正式に文書なよって、デッカより以前に断られていたからである。
それにも係わらず、またEMIにやってきている... 

彼は、内心の動揺を悟られぬようにするだけで精一杯だった筈である。だが、ここでも彼の見かけの印象が好結果をもたらした。ジョージ・マーティンは、エプスタインのきちんとした服装と、いかにも上品な物腰に、好印象を抱いたのである。
エプスタインは、すぐにでも契約に持っていきたかったが、その前にいるジョージ・マーティンは、長身で、この世界では珍しく上品で生真面目なイメージを与える人物であり、なかなかすぐに商談というわけには、いかなかった。


ジョージ・マーティンは、まだ36歳であったが、すでにピーター・セラーズという喜劇の大スター、さらに日本でも大ヒットした映画「007シリーズ」の主題歌「ロシアより愛をこめて」を歌うことになるあのマット・モンローのレコーディングを担当するという、EMIでもかなりの実力者として認められている人物であり、落ち着いて、自信に満ちた態度は、少なからずエプスタインを圧倒するものがあった。
しかし、全てがいいように回り始めていた。この時のエプスタインの印象を後にジョージ・マーティンはこう語るのだ。

「彼はごり押しするようなところがなかったよ」
さらに、エプスタインにもビートルズにも、極めて幸運なことがあった。 ジョージ・マーティンは、確固たる地位を占める実力者だったが、唯一、若者をとらえるマーケット向けのアーティストを抱えていなかったのである。
「よし、彼らをロンドンに連れてきたまえ。テストしてみよう」
エプスタインは、誰もいなければ、その場で躍り上がったのかも知れない。けれども、彼は、持ち前の優雅な態度でニッコリと微笑んだのだった。

1962年5月9日。アビーロードのEMIスタジオを出たエプスタインは、その足でウエリントン通りにある郵便局に向かい、そこから、このビッグニュースを母親に電話で伝えている。
さらに、ハンブルグにいるビートルズ、さらに「マージー・ビート」のビル・ハリー宛には電報を打った。あっと言う間に、このニュースが広まったことは、言うまでもない。

6月4日、マンチェスター・スクウェアのEMIのオフィスで、ジョージ・マーティンは初めてビートルズに会った。エプスタイン同様、上品な雰囲気を持つこの人物は、ビートルズから強烈な印象を受けた。彼は、すぐ、ビートルズに「非凡な個性とカリスマ」を感じたという。「沸き出るようなユーモア」にも魅了されたというが、おそらく、ビートルズには、時と場所を十分心得た会話をするだけのクレバーさがあったからであろう。
6月6日、テストが終わった後にジョージ・マーティンは、こう言ったのである。

「君たちが気に入ったよ。一緒にレコードをつくろう」

H J