Episord 36 ビートルマニア

 「プリーズ・プリーズ・ミー」の成功で、ビートルズは全国区の人気を得るようになるが、その前には旅公演があった。ヘレン・シャピロ等をメインとするコンサートツアーである。
ビートルズの一員となったリンゴ・スターは、旅には慣れていたが、いきなりビートルズとして旅行するわけである。不安が無いはずがなかった。
「彼らはお互いに知り合っていたから、問題は無いわけだけど、僕は何しろ初めてだからね。ホテルに着いた時、誰と一緒になるか心配だった。たいていはジョンがジョージと一緒の部屋に泊まることになったので、僕はポールと一緒の部屋だった。まったく無用の心配だったけどね」

「旅公演の5週間で体重が42ポンドも減りましたよ。本当なんです。154ポンドから112ポンドにまで体重が減ったんです。それこそ寝食を忘れて仕事をしなければなりませんでした」
これはロード・マネジャーのニール・アスピノールの言葉である。リバプールでなら勝手が解るだが、旅に出るとなると、毎日、毎日、新たな難問が出て来るのであった。ビートルズに怒鳴られるのは、いつも彼だった。ホテル、劇場、ステージ上の全てのこと、また、詰めかけるファン対策も彼がこなしていた。
しかし、ついにはどうしようもなくなり、キャバン・クラブの用心棒だったマルカム・エバンスが呼ばれて、共にロードマネジャーとしての仕事をこなすようになる。

マルカム・エバンスは電信関係のエンジニアだったが、いつの間にかキャバン・クラブの用心棒になっていたという人物である。用心棒という言い方がまずければ、雑用係でもいい。彼は、エンジニアとしてまったく生活に不安がない日々を送っていたのであるが、たまたま、いつもとは違う道を通って帰宅しようとしたことが、人生を変えることになった。
「それまでは気にも留めていなかった通りを歩いてみたんです。そこで私は『キャバン・クラブ』という店に入ってみました。クラブなんてそれまでに一度も入ったことが無かったんですが」それ以来、彼はキャバン・クラブに足繁く通い、用心棒になっていたのだった。もちろん、仕事を終えてからのアルバイトのようなものである。

彼は、結婚して子どもが1人。新築の家のローンを返済しつつ、人生プランも立てて、誰が見ても文句の付けようのない人生を歩んでいたのである。ただ、とにかくキャバン・クラブに関わっていることが気に入っていたのだ。
3カ月ほどしたところで、エプスタインから今の仕事を辞めてロード・マネジャーにならないかという話を持ちかけられた。セカンド・ロード・マネジャーとして、次の予定地に先乗りして、ビートルズが着く前に楽器の準備とテストをしておくというのが仕事だった。当地での公演が終わると、今度は、荷物をまとめ、次の予定地に向かう。
しかし、最初の頃は失敗ばかりしている。結局、エプスタインがこの男なら信頼できるとして雇ったのだろうが、エンジニアだった男が、いきなり転身したのだから失敗するのも当然と言えば当然だった。

「楽器のことなんか何も知りませんでした。最初はニールが手伝ってくれたんですが、1人でやらなきゃならなくなった日には、どうしていいのかわからなくなってしまって、ほかのグループのドラマーに頼みました」要するに、ドラムをセットする必要があるわけである。
しかし、そのセッティングなど、素人がいきなり任せられたら、誰だって立ち往生してしまうのではなかろうか。彼は、ドラマーにはそれぞれのセッティングがあるということも知らなかった。結局、その時、シンバルの高さが違っていて、リンゴには使えなかったのである。
さらに大変だったのは押し寄せるファンの攻勢だった。
次第に、ビートルズの人気は尋常なものではなくなって行くのだ。彼らは、まるでストーカーのような心理状態である。つまり、ビートルズも自分に会いたがっている。自分が会わなければ悲しむだろうというものだった。

リバプールでは、レノン、マッカートニー、ハリソンといったビートルズと同じ姓の家で、突如として電話のベルが鳴り出した。電話帳を調べて、片っ端から電話するファンが居たのである。
当然ながらビートルズの家族は、大変なことになっていた。勝手にどんどんファン達が押し寄せてくるのである。
最初から一貫して、これを喜んだのはジョージの母ルイーズ・ハリソンくらいなもので、ほかの家族はウンザリしてしまったというのが現実だった。
ジム・マッカートニーが異変を感じたのも電話からだった。最初は、ひっきりなしに掛かってくる電話にいちいち対応していたというからご苦労なことである。何か緊急なことがあっては大変だと考えたのだという。
そのうち、ファンは家にまでやって来る。やはり最初のうちは、遠くからよく訪ねてくれましたと言って、いちいち家に入れていたと言う。

ミミの場合はどうであろう。ジョンが、いつか夢破れて家に帰ってくると信じていた彼女も、次から次へとやってくるファンにいちいち対応していたようなのである。
彼女はジョンの古い持ち物をファンに分け与えていた。だが、ある日、体調を崩して2階で休んでいたことがあった。医師に電話をしていたので、裏口には鍵はかけていなかったのである。ところが、階下で音がする。
強盗に入られたと思ったミミが階下を見ると、2人の女の子が勝手に入り込んでいたのだった。これまで述べてきたミミの性格からすればお解りだろう。彼女は激怒し、出て行けと叫ぶ。2人の女の子は、出て行ったのだが、何と勝手口の鍵を盗んでいったのだという。
この事件のあと、ミミはリバプールを離れる決心をしたのだった。

リンゴの母エルシーと義父のハリーの場合は、突然の環境の変化に戸惑い、恐れた例である。郵便箱は盗まれる、ドアは削り取られる、持っていく物が無ければ、ドアや窓ガラスにペンキで文字を描かれるという有り様だった。
ついに耐えられなくなって引っ越すのだが、それまでには、やって来たファンにリンゴが使用した靴や靴下、シャツその他なんでもかんでも、くれと言われれば与えていたのだそうだ。

ちなみにリンゴには、なんとも奇妙な話がある。
中学時代、リンゴはその殆どの期間を病院で送っていたことは述べた通りである。就職のために書類を貰いに行ったときは、彼の顔を覚えていた者は誰も居なかった。
ところが、不思議なことに、彼の使用した机と椅子だけは覚えていたという話。リンゴの通ったその中学校では、「リンゴ・スターが使っていた」という机と椅子を持ち出して、それに座って写真を撮る人から、何がしかの金銭を徴収したのである。とんだ中学校もあったものだ。
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