Episord 54 愛こそはすべて

 アルマ・コーガン。彼女は、英国においてビートルズ登場以前に誰もが認めるナンバーワンの歌手だった。
1932年5月19日、ロンドンにて出生。兄と妹がいた。幼い時から人前で歌うことが大好きだった彼女は、周囲の理解もあり(母親が熱心だったらしい)歌手を志す。52年に父を亡くすが、この年レコード会社と契約し、本格的なプロ歌手として出発するのである。
日本でも「ポケット・トランジスター」がヒットした際(62年)来日しているのだが、残念ながら私の記憶には全く無い。
昔は、外国からホンモノが来日しても、日本語で歌っていないと受け入れられないような処があった。

「ダイアナ」を歌った若き日のポール・アンカも来日したが、一般的な音楽ファンは、日本語でカバーした山下敬二郎の方を好んだ。(ちなみに山下敬二郎はNHKの人気番組「ジェスチャー」で水の江滝子と共に出演していた柳家金語楼の息子である) だから、日本の女性歌手のカバーでこの「ポケット・トランジスタ」という曲は覚えている。森山加代子が歌っていたので、タイトルは忘れていても、メロディーを聴けば、ああ、あの曲かと懐かしく思い出す人もいる筈だ。それほどこの曲はヒットした。

もっとも、ビートルズ登場以前のイギリスも日本と事情はよく似ていた。殆どの歌手はアメリカの曲をカバーして、イギリスでヒットさせていたわけだ。しかし、アルマ・コーガンは紛れもなく才能の輝きがあった。
その笑い声は人を惹きつけずにおれぬ魅力があり、多くの人間が彼女のもとに集ったのである。彼女はケンジントンのスタッフォード・コートにある家に、母と妹(妹はサンドラ・キャロンという名の女優)と暮らしていたが、そこは自然発生的に出来た仲間の定期的な集いの場ともなっていた。

アルマの家には絶えず来客があり、たとえ朝の3時に出かけても、誰かが顔を出すというような、そんな感じだった。リバプールからロンドンへ居を移したブライアン・エプスタインも、このアルマの家へ頻繁に訪れた1人だった。
何しろ、そこに集るのは音楽関係者だけに限らなかった。マイケル・ケイン、ダニー・ケイ、ケーリー・グラント、テレンス・スタンプ、サミー・デービス・ジュア等々...芸能界のそうそうたる顔ぶれが集ったのである。エプスタインがアルマの家へ訪れたのは、こうした有名人と知り合いになれるというのも大きかったのだろう。

しかし、エプスタインの生まれついての魅力は、彼らに遜色無かったようだ。アルマの母、フェイ・コーガンは語っている。
「本物の紳士にお会いできて光栄でした」
エプスタインは、ジョンの伯母ミミにそうしたように、訪れるたびに花を持って行った。行くたびに必ずなのだから、これは“利いた”のである。
妹のサンドラ・キャロンも姉がエプスタインと頻繁に電話をしているのを知っている。アルマはエプスタインの家に訪れ、何百着もあるスーツに驚いていたという。

アルマ・コーガンはエプスタインにマネージャーになって欲しかった。彼女は、いつも派手なドレスを着ている煌びやかな女性だったが、真はしっかりした処があって、ちょっとした褒め言葉に有頂天になるようなタイプではなかった。
そんな彼女がマネージャーになっ欲しかったわけだから、エプスタインへの信頼感は相当なものである。
だが、残念なことにエプスタインは、自分がマネージャーをする女性歌手はシラ・ブラックただ1人だと心に決めていたのである。それでも、エプスタインの心にアルマの占めるスペースが少なくなかったことは確かだった。
彼は、リバプールの両親に、わざわざ彼女を紹介している。これは普通の感覚でいけば、将来を約束するという処までいくパターンであろう。エプスタインは旅先から必ずアマルに絵はがきを送り、土産を忘れることは無かった。

もし、エプスタインが結婚するのだとしたら、アルマ・コーガンしかなかったというのが周囲の人間の感想だった。彼がホモセクシャルであるということも、何故か問題とはならなかった。妹のサンドラでさえ、そのことは気にならなかったと言うのだ。
「その話は、そっと何処かへしまい込まれていましたの」
母親のフェイがどの程度まで知っていたのかは定かではないが、彼女は2人が真剣に交際しているのだと考えていた。彼女がその気になって結婚話を進めようとしても不思議はなかった。
ユダヤ人でもある母が、アルマとブライアンの幸福を祈っていたのは間違いなかった。しかし、やがてエプスタインは、ロンドンに留まることなく世界中を忙しく飛び回るようになる。ハードスケジュールに忙殺され、数カ月間、彼女とは会えなくなっていた。

1966年10月26日、アルマ・コーガンはガンのために亡くなった。34歳という若さであった。
エプスタインは、ふさぎ込む。その落ち込みようは非道かった。

1967年、エプスタインがドラッグを常用していることは、もはや公然の秘密となっていた。体を気遣うスタッフの言葉を彼は無視し続けた。医師からもっと給養をとるようにと忠告されたエプスタインは、別荘を買うことにする。
そこが、週末に過ごす隠れ家となれば、健康も回復することだろう。彼は、骨董品、家具、台所用品その他あらゆるものを夢中になって買い集めた。そしてスタッフにも言うのだった。
「ショー・ビジネス関係者の溜まり場じゃなく、静けさを味わう避難所にするつもりだ」だが、いざ全てが整っても、彼がそこへ“避難”することは殆ど無かった。

1967年6月25日、アビイ・ロードのEMIスタジオにBBCのカメラが持ち込まれた。ビートルズが、全世界4億人の視聴者に向けて衛星中継される特別番組の英国代表として、新曲を披露するのである。
久しぶりの緊張感で、ジョンはリードボーカルだというのに、放送の少し前からガムをかんでいた。

■愛こそはすべて

 不可知なものは あなたにも分からない
 隠されていれば それはあなたに見えない
 本来あなたがいる場所にしか あなたは存在できない
 それは 簡単なこと

 必要なのは愛 愛さえあれば...

 ジョンは語るように歌った。
 All You Need Is Love  「愛こそはすべて」と。

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