Episord 55 陰と陽

 結婚せず、独り者であることについて、エプスタインは語っている。「私はとても残念なんです。妻や子供が居ないことで、何かを失っているに違いないと思うんです。子供がいれば楽しいだろうと思いますね」妻や子供を持たないエプスタインが、家族のように考えていたビートルズとの契約が、再び交わされた。
EMIは契約切れに際して、ビートルズが別の会社と契約するのではないかと危惧していた。しかし、EMIとビートルズとの契約は、エプスタインによって再び調印されたのである。

1966年中頃、既にEMIとビートルズとの契約は切れており、仮契約という形でレコーディングする状態が続いていたのである。EMIはビートルズを離したくなかった。
この時に結ばれた契約内容は、当時としては異例なものだった。ビートルズの印税収入は、レコード小売価格の10%。これは当時、普通の2倍に相当する。
エプスタインは上機嫌だった。それまで金銭面で、散々ビートルズに文句を言われて来たが、今回は、アーティストに払われる印税としては最高の条件を引き出したからである。しかも、契約期間は9年。ビートルズは1970年に解散するのだが、この契約によって、EMIは彼らのソロアルバムを発売することにもなるのである。

1967年6月。イスラエルとアラブ諸国との間で戦争が勃発した。世界中のユダヤ人達が、イスラエルに資金援助をする動きとなり、音楽関係者の間でも、同様の反応があった。エプスタインにも、資金援助を求める話があったが、彼はこれを拒絶した。
その件には関わり合いたくないと答えたのである。これは関係者にとって意外なことであり、驚きでもあった。エプスタインは宗教を拒否する人間ではなかったが、宗教に起因して起こる諸問題には、きわめて否定的だった。

「イスラエルの戦争に、協力するつもりはありません。傷ついたイスラエル人と同じように、傷ついたアラブ人に対して憐れみを感じるからです。私には人は皆同じなのです。区別など出来ません。特定の民族の苦しみにだけ目を向けるのは間違っていると思うのです。
私は肌の色、主義、宗教、国籍を超えて人間を理解すべきだと信じています。そのためになら、どんなことでもするでしょう。私の言うことが、曖昧で漠然としたもののように聞こえようとも、世界平和はこうした考え以外にはあり得ないと考えます」

こうした平和への想いは、ユダヤ人としての彼の生き方を反映していたものだとする指摘もある。ユダヤ教にはホモセクシャルを異常者、あるいは哀れむべき病人とする考えがあり、さらに“正統派”を自認する人達の考え方は、はっきりとそれを糾弾していた。
聖書の意味を“正確に”伝えることが自分達の義務であるとの考え方からだった。
エプスタインは、物心ついたときには既にユダヤ教徒としての生活を実践していた。確かに敬虔なユダヤ教徒そのものであったが、それは、うわべだけだったろうと述べたリバプール時代の友人の話は既に述べた。ホモセクシャルである彼は、常に疎外感を持っていた筈だと。

現在では、ユダヤ社会の中でホモセクシャルを単に異常で、病的で糾弾すべきだとする考え方は無くなって来ている。
「ホモセクシャルを家族に持つ人々は、絶えず孤立感や不安感に悩まされ、攻撃や非難を浴びることを恐れ、救いを求めることすらためらってしまう。我々は彼らを社会から締め出す時代から、もっと啓蒙された社会へと踏み出したのだ」
「ユダヤ教はかつてホモセクシャルを糾弾して来たが、もはやその糾弾を続けることは出来ない。同胞であるユダヤ人を我々の社会に迎え入れる時が来たのだ。我々同様、彼らもこの社会の一員になる権利を持っているのだ」

こうした考え方が発表され、一般的になって来ている。現在、例えば日本でも芸能界にはっきりそれと解る人たちが、活躍する場を与えられて、大多数の人達から受け入れられている状況からすれば、それらの言葉は何やら大袈裟すぎるかのように思われるかも知れない。
しかし、宗教上の問題が大きく関わっていた西欧諸国で、やはりホモセクシャルは特別に問題視されたと理解すべきだろう。こうした考え方が出るまで、エプスタインは待てなかったわけだが。

エプスタインは、自分の考え方にユダヤ教の影響があることを認めている。聖典や祈祷の中に“素晴らしくためになること”がたくさん書かれていることも認めていた。
だが、それらも形式を重んじられることによって、彼には受け入れ難いものとなった。彼は、礼拝所では不安感を覚えるほどだったという。

6月18日、ポール・マッカートニー、25歳の誕生日。
「ライフ」誌のインタビュー記事でポールがLSD体験を認める発言をすると、イギリス中の新聞はこの話題に飛び付き、一斉に書き立てた。
ポールはエプスタインに電話で弁解する。ちょっと試してみたと言っただけだと。当然、エプスタインにコメントが求められることになるだろう。エプスタインの悩みがまた増えた。眠れぬ一夜を過ごした彼は、「自分もLSD体験がある」と発表することを決意する。

「1つにはポールを楽にしてやるためでした。人は誰でも孤立するのは辛いものですから。そして、2つ目に、私自身、事実を隠していられなかったのです。幻覚剤のドラッグには多くのよい効果があると私は信じていますし。皆さんはシスコのヒッピー達を惨めな若者達だとお思いでしょうが、彼等は我が国の指導者たちよりずっと素晴らしいことを実践しているのです」

同時に、このとき裁判中であったローリング・ストーンズについても言及している。「彼らがスケープゴートにされたのは残念です」
「彼らはドラッグに飢えて“手を出した”のではなく、それは“実験”だったのです」良かれと思った決断は、波紋を広げていく。

1967年の夏。エプスタインの友人達は、彼の気分や態度が、陰と陽との間で激変するのに気づき始めた。仕事をこなしながらも、彼が“寂しそう”なのがはっきり解ったと言う。

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