Episord 39 熱狂

 さて、再び、ビートルズの足跡を辿ることにしよう。
1963年から始まったビートルズ旋風は、世界中を巻き込んだ。彼らの行くところ、国や人種を問わず、あらゆる若者達が熱狂し、興奮しまくるのである。それは、あたかも熱病で倒れる光景のようであり、オーバーではなく、興奮が頂点に達すると女の子達は失神した。
これほどの規模で、多数の人間が興奮に巻き込まれたと言うことは、かつて無かったことだった。空前絶後とはまさにこのことで、ビートルズに熱狂する者たちをマスコミは“ビートルズマニア”と呼び、一種異様な理解できない“社会現象”として捉えたのであった。

若者達が熱狂するのを無視するわけには行かなかったのだろう。当時は、世界的な有名人が何らかの形でビートルズについて語っている。もちろん、“大人”である彼らが、“単なる社会現象”を肯定する筈がなかった。
多くの意見は批判的なものであった。しかし、何にせよ、彼らはビートルズを語った。無視するにしろ、批判するにしろ、この社会現象に対して、自分が無知であるわけにはいかなかったのである。後に、それがいかに的を外れた言葉として残ることになろうとも。

1963年10月13日、ビートルズは、イギリスで最も有名なテレビ番組に出演する。異変はこの番組が開始される前から始まっていた。劇場からの中継であったが、ファンは劇場の周りに押し寄せ、またたくまに周辺地域全体が人で溢れてしまう。楽屋の入口までもファンが押し寄せたため、楽屋は閉鎖されてしまった。
人波は途切れることなく、次々とビートルズを見ようという者達で溢れ返った。
まさに事態は異常な状況を呈しており、無関係の筈の他局のテレビ関係者も、大群衆が溢れ返る様子を取材するのだった。警察当局は、予想もしない出来ごとに、ただただ狼狽し、現場は混乱を極めた。

公演が終わり、ファン達は、ビートルズが劇場から出てくるのを待ち受ける。ビートルズを「脱出」させるための車は、楽屋側ではなく、わざと劇場の正面入口に待機させていた。考え方としては悪くなかったのだが、警察が余計なことをした。
目立ってはまずいだろうと、車を少し離れた場所に移動させたのだ。
これが大変な事態をもたらした。正面玄関から素早く車に乗り込む手はずだったビートルズは、ある筈の車を探せず、そこに佇む。やがて人々はビートルズに気が付き、恐ろしい勢いで押し寄せて来た。ビートルズは人々にもみくちゃにされながら、それこそ必死の思いで、車まで走らねばならなかったのだ。実際この時、殺されるのではないかと彼らは思ったと言う。

翌日、すべての新聞が第一面で、このニュースを報じた。ビートルズについての記事と言うよりは、ヒステリックな群衆と混乱振りを大きな写真入りで報道したのである。翌週、ビートルズが、英国の芸能人にとって最大のひのき舞台である「ロイヤル・バラエティ・パフォーマンス(王室芸能大会)」に出演するということが発表された。
あらゆるマスコミは、旅公演に出ていたビートルズを追った。王室に対する何らかの皮肉めいたコメントを聞き出せるのではないかと「期待」したからである。「ロイヤル・バラエティ・パフォーマンス」は11月4日の開催予定だった。

ビートルズはエプスタインの組んだスケジュールに従って、国内巡業を続けていたが、至るところで、全く同じような大混乱が起き、そのたびにマスコミは騒ぎ、新聞は大々的にその場面を報じるのであった。海外公演として、彼らはスウェーデンに旅立った。
ちょうどこの頃、イギリスでは「She Loves You 」が100万枚の売り上げとなり、ゴールド・ディスクとなる。
この曲は予約だけで50万枚、半年間の売上げが150万枚という当時としては驚異的な売り上げを記録した。これは、イギリスのレコード史上初のミリオン・セラーでもあった。

この頃になると、ビートルズの人気はイギリス国内だけのものではなくなって来る。スウェーデン滞在中の5日間は、イギリス同様の大混乱となり、連日、マスコミは彼らをトップで扱った。ストックホルムでは、殺到するファンが警察の防壁をくぐり抜けステージに達し、ジョージは倒され、危うくファンに踏みつぶされるところであった。

ビートルズはこうした事態を把握していたのだろうか。彼らの取り巻きは、人気が出たというよりも、まずビートルズの安全を確保することに必死だった。ビートルズも、ファンに愛想を振りまいて殺される危険を犯すことは避け、何よりも逃げることを優先して考えた。
彼らが、自分たちの人気が途方もないものであると気付いたのは、イギリスに戻ってからだった。ロンドン空港は何万という空前の人波で溢れ、それぞれが歓声をあげて彼らの名を叫び続けた。まさに凱旋だった。

11月4日、プリンス・オブ・ウェールズ劇場で、「ロイヤル・バラエティ・パフォーマンス」が開催される。客の年齢層はずっと高くなり、入場料も普通の4倍。これはチャリティ・ショーでもあり、ある種、社交界の様相も呈しているものであった。
出演者は一流だけであり、名誉なことであった。この年の初めには、地方の劇場から締め出しをくらったことさえあったビートルズは、いつの間にか、一流の仲間入りをしていたのである。
何しろ、イギリス皇室がお見えになるわけであり、観客は、絶えず皇室を意識している。出演者は非常にやりにくい。客達は、拍手をするにも、まず、皇室の方々の反応を確かめてからということになるからだった。

ビートルズは、普段と変わりなく、演奏した。話題となったジョンのジョークも、一部に「生意気だ」という声があったが、おおむね愛すべきジョークとして受け入れられた。普段はまったく芸能記事を扱わない種類のお固い新聞も、彼らを取り上げるようになった。国会でも彼らに係わった事案が質疑された。
彼らの演奏のたびに動員される警官たちの“危険な勤務”について、大まじめに語られたのである。

やがて、十代の若者たちの長髪が目立ち始める。髪を切る、切らないで、学校や職場から追放される若者たちのことが問題にとなった。こうした“社会現象”を新聞が取り上げない筈がなかった。
批判的な新聞は、「これはヒトラーが作り出したのと同じような集団ヒステリーだ」と論じ、擁護派は、「陽気で、ハンサムで、愛すべきビートルズを認めないのはつまらない人間だ」と反論した。英国教会指導者の大会、国教会議でも、彼らに対する批難と擁護する意見が飛び交った。心理学者たちは、ビートルズがもたらす現象を論じることで多大な収入を得る。
もう、すべてがビートル、ビートルズ、ビートルズ。彼らについて語られぬ日はないという状況になって行くのである。
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