私が愛してやまないビートルズ、そしてジョン・レノン。そのジョンに対しての気持ちを書くはずが、ビートルズを題材にした、
当人の回顧録になってしまいました。単なる一人の人間の戯言に過ぎません、不快に思われる方は読まないようお願いします。
拝啓、敬愛なるジョン・レノン様 R
第19話 ジョンの死
 翌年の「8.8ロック・サマーコンサート」は御所の市民会館で行われた。新築されたばかりの新しい会館は立派な建物だった。今回は前回のアクシデントを教訓にして荒木君は予備のスティックを、武澤君はストラップの穴をきちんとホッチキスで留めるという備えで事なきを得て無事に終った。
ただ終わりがけに他のバンドのメンバーと揉めて喧嘩沙汰になりかけたが、僕達が我慢することで何とか回避した。事の発端は出演順で、何故か僕達の出番はトリであるオリーブの直前だったのだ。
他のバンドからすれば後入りの新参者の僕達、元からいる他のバンドのリーダーはこの事が面白くなかったのだろう、僕達の演奏を見てやっかみ半分でけなしていたのを、この日来てくれていた友人が聞いたらしく僕達に伝えたのだ。なにしろ血気盛んな頃のこと、そんな事を言ったのはお前かとなりかけたのだが、そこは他の友人達によって抑えられ、最悪の事態は免れたのだが憤慨した気持ちの納まらない、後味の悪さだけが残ったコンサートだった。
その後は殆どセッションすることもなくなり、時たま銀行のパーティなどに呼ばれた時などに集まる程度で、正式にバンドとして活動することもなくなっていた。ター君は自分自身がリーダーとして君臨する新たなバンド「バック・ストリート」を結成し、そちらで活躍するようになっていた。僕はたまにター君に頼まれて彼のバンドに出演したりする程度で、段々と音楽、バンドから遠ざかって行った。

 22歳の秋に僕は結婚した。相手は例の彼女だ。あのラスト・コンサート以来、僕達の交際は順調で4年後に結婚したのだった。この頃はビートルズ、いやキャロルさえもあまり聞かないようになっていた。流行の洋楽や日本のポップスなど、様々な音楽を聴いていたとは思うが、ビートルズのように一つのアーティストにのめり込む事はなかった。
ちょうどそんな頃、僕はある日歯科医院の待合いに置いてあった雑誌にジョンが載っているのを見つけた。東洋系の女性との関係を噂された記事で、騒ぎたてる程のものではなかったが、僕にはジョンが妙に懐かしく映ったのだった。
一時は無精髭を生やしたり、髪を短く切ったりしておっさん臭くなっていたジョンだったが、髪を長いめにしたタキシード姿のジョンは若かりし頃のジョンを彷彿させ、やはりジョンはカッコイイよなと再認識させられた。
それから暫くした12月、そう、あの忌まわしい12月9日。あれはお昼頃だったと思う。僕は仕事場が家の近くだったので自宅に帰って昼食を食べていたのだが、TVがついていてお昼のバラエティか何かが掛かっていたと思う。その時臨時ニュースを知らせる音と同時に画面左上に文字が映った。
「−ジョン・レノン氏が暗殺されました−」
僕は呆気にとられたように箸と茶碗を持ったまま、その文字を見つめていた。「ジョンが死んだ?冗談やろ...いや、冗談でニュースなど流れないやろうな..まさか..ウソやろ...」何度も臨時ニュースの字幕が出る度、何かの誤報であって欲しいと思いながら画面を呆然と見つめていたのを思い出す。その夜からTVなどの報道は大騒ぎになり、数日後にはジョンの特集が組まれ、彼を偲ぶ追悼番組などが各局で放送された。世間は大騒ぎをしているのだが、僕は何やら焦点が定まらないというか、まるで信じていないというか、彼が死んだという事実を受け入れられないでいるような状態だったのか、重大な事実がそこにあるのに形を認識出来ないままにいたようだった。
このジョンの死を認められるようになるまでにかなりの時間を要したように思う。恐らく半年以上は掛かったのではなかったかと思う。
もしかすると実現したかも知れなかったビートルズの再結成、僕はこの再結成の実現を心待ちに信じていたのだった。その儚い夢が完全に打ち砕かれてしまったのだ。ジョンが亡くなってしまった時点で再結成が不可能になったという事実が確定してしまったのだ。
彼の死を認めざるを得なくなった瞬間、僕は愕然としてしまった。僕に限らずビートルズ・ファンはみんな同じ気持ちだったと思う。
この時以降、僕はビートルズの曲やそれにまつわる各メンバーのソロなどを聴くことを止めた。聴けば聴くほど虚しさを感じるからだったのだろうか、痛みに触れないように思っていたのかも知れない。


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